「待ちましょう」「充電してから」という言葉について

「子どもの充電が終わるまで、待ちましょう」という言葉は、不登校の始まった頃、私自身、自分に言い聞かせてきた言葉です。

しかし抽象的、感覚的で正直よくわかってなかったと思います。

 

不登校が始まった時期は親が焦って無理やり学校に行かせようとしてもますます悪くなるから、「今はちょっと待って」というのは、わかります。

でも問題は、その「待ち方」を誰も教えてくれないことではないでしょうか。

 

ただ何もしないで「待つ」のではありませんでした。「待つ」ということの積極的意味は、何でしょうか。

私たちがしてきたような『 家庭での対応の仕方を変えつつ、子どもの変化を待つ』ということではないかと今は思います。

 

単に抽象的な「待ちましょう」だけでなく、

「そもそも何を待つのか」

「具体的にどうやって待つか」

「どういう心で待つか」

この辺を皆さんはどうして考えておられますか。

 

また「充電」という喩えも、どういうことが子どもにとって本当の「充電」になるのかを、具体的につかんでおかなくてはいけませんよね。

 

親はこのまやかしの言葉に安心するのではなく、実際本当に「充電」できているのかどうかを、見極めなければならないと思うのです。

具体的に何が「充電」なのか。

学校から離れて家でのんびりと自分本位で過ごすことなのか、それとも他の「充電の仕方」があるのか。

 

子どもが「充電」するために、親はどうあればいいのか。

それを探るのが、私たちの家庭教育の学びなのではないでしょうか。

 

子どもの復学を経験してきた私たちが、こういった言葉をどう考えるかを書いてみることはきっと意味のあることだと思います。

 

 

メルシーさんのコメント

 

「待ちましょう」という言葉は、あまりに抽象的な言葉ですね。

確かに、学校に行けない子どもを、引きずってでも連れて行こうとしたり、褒めて叱って泣き落としてと、ムリに行かせようとするのはいけません。

 

でも、じゃあ本当に、ただ何もせずにひたすら待ち続けていれば良いのか?

私は違うと思います。

 

何もせずに待っていていいの?

ある日我が子が学校に行けなくなって、親は「いったい何故?!」とパニックになっています。

そんな時、専門家に「待ちましょう」等と言われれば、どうしたら良いかもわからずに、でも専門家がそう言うのだからとただ何もせずに待つことになる・・・。

 

ただ何もせずに待っていて、本当に子どもは学校に行けるようになるのでしょうか?

もしこのまま学校に行かないことを良しとしたとして、それで子どもがこれからの人生をイキイキと幸せな気持ちで暮らせるなら構いません。

 

でも、本当にそんな風になるのでしょうか?

 

確かに一時的には楽になるかもしれません。

でも子どもは何故かイラ立ち、脅え、暴れたりする、「死にたい」等と言い出す。

何も話さなくなる。

赤ちゃんみたいに世話をすることを要求する。

家の中の王様になり、物欲が強くなり、きょうだい喧嘩は激しくなり・・・。

家族みんながほとほと疲れきってしまう家庭も少なくないのでは?

 

子どもが自ら「学校に行く」と、動き出すのを待つのは良いです。

我が家もそれを待ちました。

でも大事なのは、その待ち方なのではないでしょうか?

 

具体的な待ち方って?

具体的にどう待つのか、それを知る必要があると思います。

 

私自身、「2、3年はかかると覚悟して」と言われ、気が遠くなりました。

もっと凄いことを言われた人もいますね。

5年かかるとか、それまでの人生分はかかるとか・・・。

 

今10歳ならば20歳になって、ようやく不登校を克服すると言うのでしょうか?

義務教育は当然終わっているし、大人になってしまいますよね。

もうその頃には不登校どころの問題ではなくなっているのではないでしょうか。

 

不登校の子どもを持つ親の大半は、1日1日を生き地獄のような気持ちで過ごしています。

それが何年も続くの?冗談じゃないです。

 

「信じて待ちましょう」いったい何を信じれば良いのでしょう。

「待ちましょう」という名の元で放置され続ける子ども、無責任なこと言わないで欲しい。

 

親が楽になりましょうって?

「長丁場になりますから、まずは親が楽になりましょう」

子どもが学校にも行けないで、家の中にひきこもり、体調も悪化していく中、いったいどの親が本当に楽になれるのでしょうか?

 

一生懸命育ててきたんです。

大切な我が子がこんなに辛そうにしているのに、親が楽になれる訳がないでしょう。

 

待ちますよ、もちろんムリに行かせようとしたりはしません。

でも、何もせずにただ信じて待てだなんて、そんな酷なこと言わないで下さい。

私に出来ることを教えて下さい!

 

親が変われば子も変わる

「親が変われば子も変わる」

これを、子どもを変える為の下心だなんて言わないで下さい。

子どもをどうにかしようとしているのではありません。

私に出来ることをするだけです。

それまで良かれと思ってしてきた子育てを、生き方を、今一度見直し、自分が変わることを学びたいのです。

 

もしかすると、「心から子どもが学校に行かなくても良いと思わないと解決しない」と思って、必死に自分の欲求と戦い続けている人がいるのかもしれません。

それはね、辛いですよ。

 

自分の思いを抑圧して、何年もかかるなんて言われて、大切な子どもに何も出来ないままひたすら待つなんて、それはね、辛くて当たり前です。

子どもは学校に行けない状態そのものがストレスになって、親子で悪循環です。

 

私の待ち方

「学び直しながら待つ」

これが私の待ち方でした。

このことは私の人生をも変えました。

娘は学校に戻り、イキイキとした子どもに生まれ変わりました。

今では家族みんなが幸せになり、笑顔と楽しい会話でいっぱいの家庭になりました。

 

充電とは、親が見て見ぬふりをしている間に、子どもが勝手にエネルギーをためるものではないと私は思います。

 

親の在り方、関わり方を変えることで、子どもに自立心や協調性等がついて、学校や社会に適応出来る子にしてあげること。

それにより子ども自身が自ら、「あれ?自分はなぜ今まで学校に行けなかったんだろう?

学校に行きたいな、今の自分ならやれる気がする。」と思えるようにしてあげること、それが充電の仕方だと思います。

 

「待ちましょう」「充電中です」

このような抽象的な言葉は、悩んで頭が混乱している親にとって、とても実行できるようなアドバイスではないと思います。

 

 

フルーツさんのコメント

私の考える充電

 

それまでの子どもへの接し方を振り返り、今までの親の会話や行動の仕方が子どもにどう影響を与えていたかを知り、気づいたところを変えていき、それによって子どもの行動に変化が表れるのを待つ。

そうすることで子どもが家庭内で自立心と協調性を身につけていくことが、充電なのかなと思います。

 

待つことの弊害

待って充電することで、年齢相当の成長が出来るようにし、学校で友達と1日過ごしてこれる子になれれば、それは意味のあることなのだと思います。

 

反対に、子どもへの接し方は変えないか、むしろ良くない方向へ行きながら、家で自分本位に過ごし充電しているのだからと待っているうちに退行が進みどんどん幼くなり、学校で友達と過ごせる子からはどんどん遠ざかっていくのならば、充電とは言えなくなると思います。

我が家は不登校初期に待って甘えさせなければと思い接することで、子ども上位と退行が急速に進み、学校で友達と過ごせる子からはあっという間に遠ざかりました。

 

幸い早い時点で復学支援機関に巡り会うことが出来、会話や行動を指導していただくことにより、そのような問題点も改善し、友達と過ごせる子になり再登校することが出来ました。

 

 

紅茶さんのコメント

そもそも何を待つのか

子どもが親から自立して、自分のことを自分で考え始めるのを待つ。

子ども中心の生活から身についてしまった我がままが治り、協調性を身に着け始め、学校に行っても何とか大丈夫になるのを待つ。

「本当は学校に行きたい」と自分から言えるようになるのを待つ 。

 

神経症的な行動については、親はこだわってそれを治そうとしない。「いつのまにかゆるくなっているな~」「知らん間に治ったな~」という風になることを信じるようにとの指導をもらいました。。

 

「待つ」こと自体も横に置くように指導されたように思います。そうしているうちに、本当に知らない間に治っていたんです。

 

具体的にどうやって待つのか

家に子どもがいても決して特別扱いしないで、子どもが(自分が学校にいかなくても親は困っていない。むしろ楽しく家で過ごさせてくれる)というような勘違いをしないように気をつけました。

 

そして家にいても自分は何にもすることがない、本当は学校にいるべき時間なんだということに本人が気づくのを待ちます。

 

親が今までの子育ての仕方を見直し、変わろうと努力しながら待つ。

子どもがいるからといって気を取られず、親は自分のするべき仕事をしながら待つ。

母親ノートをつけながら対応の仕方を見直し、変えながら待つ。

 

夕方からは(皆が家に帰ってくる時間になってからは)子どもの言う言葉をしっかりと聞いてやりながら、 ひたすら受身になって待つ。

 

どういう心で待つのか

私が支援機関で学んできたことはこのような心でした。

まず「学校が悪い、友達が悪い」という不足不満の心を捨てる。

そして、うちは「この子の性格なんとかならないの?!」と子どもに対しての不足不満があり、「そんな性格に育ててしまったのは自分」という考え方。まず自分が変わろうとする心。

自分の思い込みを考え直そうとする素直な心。

子どもは周りに支えられてこそ育つという感謝の心。

 

ただ、いつもこういう風にはできませんでした。 失敗の連続、親がいつまでも変わない、40年も生きてきたんだから、難しいな~と自分でうんざり。。。。

でも努力しているうちに子どもの方がどんどん、変わっていったんです。

 

それはまさに「充電」していっていると言ってもいい様子でした。

 

我が家の充電の様子

「充電」と言っても、うちの場合は神経症がとてもひどくて、まともに歩くこともできない状態、私には「あっちいけ」しか言わない状態でしたから、それが徐々にゆるくなっていったというところでしょうか。

 

そして特に元気になっていくと言うわけでもなく、ただ退屈そうにノートにいろいろ書き込んでいるばかり。夕方になると決まったテレビをみている、口数が減って自分なりに自分がこのままではよくない、次の一歩をどうしようかと考え始めたといったところでしょう。(日記をあとから読んでわかりました)

 

支援を受ける前は家族旅行に行ってみたり、映画を見に行ってみたり、楽しいことをして喜ばすことが充電だと思っていましたが、どれも本当の充電ではなかった・・・

特に次につながることにはならなかったと後から思い返します。

 

登校刺激のことは別のトピに書きましたが、その後は私に自分からいろいろ話しかけ、私もできるだけ本人をサポートするようにしました。

そうすると母と娘の関係も修復できてきました。

髪の毛をずっとほったらかしだったので、伸び放題、団子状態になっていて、可哀想だったのですが、不登校前からずっと私が髪を触るのを嫌がっていました。

学校に行くからきれいにしないといけない、素直に「お母さん、梳いて」と言ってきたときは涙が出そうでした。

ああこうやって子どもも私も回復していくんだなと実感しました。

今思い返すとこれも「充電」だったのでは。。。。と思います。

 

子どもの力はすごいです。親が何かを与えることが充電ではなかった。

自らの力が普通に自然に出てくることが充電だったと思うのです。

 

 

ティカさんのコメント

私も「待ちましょう」と言われました。

 

最初は「心が癒えるまで待つしかないのだろうか 」と思いました。しかし、3カ月もしないうちに「いったい何時まで待てばいいのだろう?」という重苦しい感情に変わっていきました。

 

「何を待つの?」「どうやって待つの?」そこに行きつく前に「待つ」ことが辛く、受け入れがたいものになってきました。

そのうち「待ってなんかいられない!」という思いが芽生えてきました。ただ、待っていることが、息子にとっていいことだとはどうしても思えませんでした。

 

待つことの弊害

学校を長く休めば休むほど、学校という社会から離れていることの問題が大きくなっていきます。かなり時間をかけて戻ることができたとしても、社会生活を送っていなかった空白の時間はなかなか埋められるものではありません。そして、悲しいかな、社会もそれに目をつぶって受け入れてくれるほど甘いものではありません。

 

そのためにも、なるべく早く復学すべきなのだと思います。しかし、ただ復学さえすればいいというものではありません。子ども自身が、以前と同じ状態のままでは、きっとまた同じような問題に突き当たり、再不登校という悲しい結果を招いてしまうかもしれません。

 

復学に必要な土台

実際にうちの息子はすぐの復学は無理でした。自立、協調性というよりも、自己肯定感に問題がありました。それまで否定・非難をされていたので、かなりのネガティブ思考になっていました。被害妄想もひどかったです。「あの子もこの子も嫌い」「先生も嫌い」相手の嫌なところが見えると受け入れらない性格になっていました。そのままの状態で学校に戻しても楽しい学校生活を送れるはずがありません。

 

親がそれまでの子育てを見直し、親が対応を変えれば、子どもはいくらでも変わることができます。

学校という社会の中で、何があっても逃げずに自分の力で乗り越えていける子どもにすること。そう育て直すこと。それが必要になってくると思います

 

そして、復学し、学校という環境の中で揉まれ、思うようにいかないことがあっても、どうにか折り合いをつけながら自分の居場所を見つけていく。そうすることで、自分で動ける力を身につけていくのだと思います。

 

社会の中で生きていく力は社会の中で。

決して、家族としか接しない家の中で備わるものではないと思います。

 

何時になるか分からない先を見て、家の中で「ただ待つこと。あてもなく待つということ」それがいい事とはどうしても思えません。

 

「待つ」のなら、親が対応を学び、親が変わることで、子どもも自然と変化し、学校の中に戻っても大丈夫な状態になるまで「待つ」こと。

あくまでも早期復学をめざしての「待ちましょう」であってほしいのです。

 

 

柚子さんのコメント

待ちましょうは、みんな必ず一度は言われていますね。

まず、最初に相談する学校の先生やスクールカウンセラーさんが、こう言われます。

 

でも、どうやって、待つのかは誰も教えてくれません。

 

不登校初期の待つ

今振り返れば、不登校初期の時は子供自身が混乱していて周りのことを受け止めることはできなかったと思います。

それなのに、親は学校へ行くことしか言わない。そうなると余計に体調不良をだすしかなくなるのでしょうか。

親は、子供に体調不良をだされると、黙りますものね。

 

親は、待つことさえしていれば安心してしまう傾向があります。

私は、そのうえ子供から目を離していました。

待ちましょうの言葉は、「○○の状態になるまで」という見通しと一緒に使ってほしいと感じています。

 

不登校膠着期の待つ

子どもが動ける状態がきても、親は何もしてくれない。

「やっぱり学校へ行きたいけど、行けない」と子供自身が考え、身動きとれなくなるのではないでしょうか。

 

まして中学生となると、子供自身もいろいろ考えます。学校へ行ったら何を言われるかと思うと、おいそれと行けないですね

 

待つ対応と時期

待ちましょうは、不登校初期の対応だと思います。

それが、次の段階へ移るきっかけや見極めができずに、いつまでも待ってしまうことが問題だと思います。

 

不登校期間は、できるだけ短い方がいいですよね。

でも、根本の原因が変わらなければ解決できません。

 

子供の充電期間に、親は何が問題だったのかを見極めて対処できれば、子供の充電が終わった時に復学を考えることができるのではないでしょうか。

不登校期間が長くなればなるほど、最初の問題とは別の問題が起こってくることが一番怖いと感じています。