【登校刺激について】

「登校刺激」とはどのようなものでしょうか?

一般的には「学校に行かせようと働きかけること」と理解されているのかと思います。

 

このコミュニティでも、各家庭によって経験が違います。

復学支援機関による登校刺激を経験した家庭もありますし、独学により復学したという家庭もあります。

 

支援機関による登校刺激は、専門家が子どもの性格や家庭の状況を良く把握した上で慎重に行われ、子どもの気持ちが学校へと向きます。

独学の家庭では、親が家庭教育を学び実践することで子どもに変化が出て復学へと結びつきました。

 

再登校、継続登校、そして自立へと繋がっていくための登校刺激とは、どのようなものだったのでしょうか。

 

 


柚子さんのコメント

 

我が家は、中1から1年間という不登校期間の中で、3回の登校刺激がありました。

 

1回目は不登校初期

2回目は中2の始業式直前

3回目は復学支援の代表の先生

 

不登校初期の登校刺激

不登校初期には、親が無理矢理学校へ行かせようとしました。

 

息子は朝起きることを拒み、耳を押さえるしぐさをしベッドから出てこようとしませんでした。

親との言い合いの中で、窓から飛び降りようともしました。

 

 

この時の登校刺激は、息子の気持ちなどお構いなしで、親の考えだけで行っていました。もちろん、息子を動かすことはできませんでした。

 

中2始業式直前

その後、中2の始業式に向けての登校刺激を親が行いました。不登校になり9ヶ月目でした。

この時期になると、息子も何とかこのままではいけないと考えるようになっていました。しかし、1週間や2週間の休みとは違います。

 

息子の『コミュニケーション能力の幼さ』という、根本的な原因が改善されていなかったため、失敗に終わります。

息子は『もうほっといてくれ』と泣き叫んでいました。親の力で押し出しても、息子一人の力でがんばることが難しかったのです。

 

 

中2の新学期に自力登校し、爆発した息子でした。その日から、息子は又家で一日中パソコンをしていました。朝もおきてきませんでした。

 

復学支援依頼後

この後、復学支援を依頼し、代表の先生が登校刺激を行ってくださいました。

 

中2になっていましたので、まず登校刺激ということになりました。というのも、中学生の場合は家族療法の効果が出るのを待っていると、中学校という社会に本人が適応する期間が足りなくなります。受験もあります。

そのため、まず学校へもどることを優先し、その対応は継続登校と平行して行われます。

 

登校刺激の当日、代表の先生が息子と話しをしてくださいました。

息子の場合は、先生の怒った声もありませんでした。

 

子供の本当はどうしたいのか。

学校に行きたい気持ちがあるのか?

 

心の奥底に封印している気持ちを引き出してくださいます。

息子の場合は、学校は行きたい。でもどうすればいいのかわからないという状態だったようです。

 

そして、学校でのいじめの問題もありました。

登校の手伝いをしてくれるお兄さんという立場で、訪問の先生の導入がされました。この時も、訪問の先生と息子との楽しそうな会話が聞こえてきていたのが印象的でした。

 

翌日から訪問の先生がこられました。実際の息子との対話の中で、息子の問題点を洗い出していかれたようです。

この時点で、まだまだ息子自身の問題は改善されていませんでした。

 

代表の先生も「あと1年あれば、安心して登校させることができるのだが、待ってられないし・・・・」と言っておられました。

それでも、登校への道筋がはっきりしたためか、息子の不安そうな部分は親にはみせませんでした。

親は、ひたすら会話ノートを書き、毎日の息子の様子を支援の先生に伝えていました。

 

そして、再登校しますが、すんなりと続くわけではありません。欠席もします。それでも、学校でおこるさまざまな問題を訪問の先生が息子をささえながら対応してくださいました。

 

本人が学校へ行くという意思を持って、実行にうつす。

そして、その手助けを訪問の先生がしてくれる。甘えの許されない社会の厳しさを代表の先生が示し、引き締めてくださいます。

この両方向からの支援が継続登校につながりました。

 

登校刺激の時点では何も変わっていなかった息子が、継続登校を続ける中で起こってくる問題に一つずつ対処することで、息子自身も親も変わりました。

 

これも、登校刺激からはじまった、不登校克服の道です。

 

 


紅茶さんのコメント

 

我が家の場合、早期の「登校刺激」は意味がありませんでした。

小3の6月に行けなくなってから、手を変え品を変え、担任の先生が学校へと導いて(登校刺激)くださいましたが、数々の特別扱いにもかかわらず、結局、完全不登校になってしまったのですから・・・。

 

担任の先生は元適応教室におられた方で、いろんな引き出しを持っておられ、 娘を学校に戻すために力を尽くしてくださったのです。 でも駄目だったのは、家庭が変わらなかったからだと、今ならわかります。先生に申し訳ない気持ちでいっぱいです。

 

「行きたいのに行けない」というのは五月雨登校のころの様子を見ていてよくわかりました。

行くとなんだか違う、嫌なことばかり起こる・・・

次の日は行かない。

 

行事があるからやっぱり行ってみる、皆も喜んでくれて良かったけど、とにかくすごく疲れる・・・

次の日行かない。

 

先生が特別に自分のために音楽会をしてくれるというから、自分も参加したい、練習のために行ってみる、いつもこうやって特別扱いしてもらっている自分に、クラスメートが冷たい目で見るようになっているのに気づく。

もう当分行けないかも。

こんな感じでした。

 

この頃の「登校刺激」は、娘を追い詰めただけだったのかもしれません。この間1年3ヶ月。とうとう娘は神経症に陥り、精神科を勧められるところまでいきました。本当に可哀想なことをしました。

 

復学支援の門をたたく

小4の9月に、親が復学支援の門をたたき、娘への接し方を変え、生活を変え、それが娘の変化につながりました。

登校刺激は次の年の3月でした。母親の勉強を始めて5ヶ月の月日が経っていました。

 

私は子どもに対する不足不満、過干渉の親でした。だから「登校刺激」に到るまでに、かなり苦労しました。まずは「自分は間違っていない」という親の考えを捨てて、一切をご破算にする勇気が要りました。

 

そして私がまず指導されたのは、神経症のような娘を「見ない」こと。

「え~~~~子どもを見ない?」

私は娘が心配で心配ですぐに見てしまうのです。それは親の当然の愛情からだと信じていたので、なかなか理解できません。親が心配すればするほど娘には結果としてよくないことが現れてくる。

このことは理屈ではありませんでした。見ないように、心配しないように親が努力することによって、娘の神経症は徐々に治っていったのです。

 

そこから始まって自分の常識が次々とくつがえされるような指導を受けました。そして娘との間の破綻していた信頼関係が、ちょっとずつ回復していきました。

 

娘はだんだんと「もうこれ以上、家にいることはできない、学校に行かなくちゃ」という気持ちを言葉であらわすようになっていました。私も「あなたはもう充分に学校に戻れるって訪問のお姉さんが言ってくださっていたよ。」と伝えました。

 

そして5年生からどうするつもりなのかということを、改めて聞きました。

娘は5年の始業式から学校に行くと言いました。「お母さんも学校に戻れるように応援するよ。大丈夫。」

そう言って、学校に戻るには不安なことが沢山あるようでしたので、それを取り除こうねと、ひとつひとつ聞いていき、具体的に解決していきました。

 

再登校後

そして娘は始業式の日、自分で支度をして自分の足で学校に行き、その後一日も休むことなく5年生の学校生活を楽しむことができました。

 

先生方は「見違えると言う言葉はまさにこのことだ」と言って下さいました。子どもの力はすごいです。こんなに回復するものだというのは、私の貴重な体験になりました。

 

5年生の時の娘は自分が復学できた喜びで輝いていました。それは今でも「5年のときが一番楽しかったな~」と言うほどです。

 

長くて暗いトンネルから出てきて、普通の青空が、新鮮に目に映るようなものだったのかもしれませんが、私自身も子どもが普通に登校していくこと、汚れた体操服を洗うこと、帰ってきた子どもが「ただいま~」ということ。

普通のことがありがたくて嬉しくてならなかったです。

 

これがうちの場合の登校刺激までの道のりです。

「適切な時期に適切なやり方の登校刺激」というものがあり、それを教えていただいたことに感謝いっぱいです。 

 

 


フルーツさんのコメント

 

我が家の登校刺激は、復学支援の流れの中で行われました。

 

復学支援のスタート

支援がスタートしたその日から、早速家庭内の会話の見直しが始まります。

今まで良かれと思ってやっていたり、子どもの要求に仕方なく流されていた母親の私の言動に改めるべき点がたくさん見つかりました。

 

それらを一つ一つ改善していくとともに、訪問カウンセラーの先生や訪問の学生が家に来て子どもと親しく遊びながら信頼関係を作っていきます。

 

学校へ行っていない状況ではあるけれど、会話の見直し等により子どもの行動にも変化が表れ、不登校初期に比べると自立心や協調性が身についてきました。

 

代表の先生の登校刺激

子どもに変化が表れそれが安定してきたと見られたころ、代表カウンセラーの先生の登校刺激の日を迎えます。

 

学校のことや今の生活について子どもと話をし、学校には行きたくないと言って毎日ゲーム等をして過ごしている子どもから、本当は学校へ行きたいんだという気持ちを、行けなくなってしまい仕方なく今のような状況になっているところから引き出してくださいました。

 

登校刺激の日にはそれまで子どもと信頼関係を築いてきた訪問カウンセラーの先生や学生も、子どもと一緒にいて子どもを支えその後の登校準備で様々な細かい準備を手伝って頂きます。

 

親は家庭内の会話や行動の改善を続け、訪問の先生方は子どもとともに具体的な準備を進めます。

 

再登校の日

そうして迎えた再登校の日、娘は再びランドセルを背負って登校することが出来ました。

 

再登校を果たしても、それで終わりではありません。

引き続き家庭内の会話等の見直しを続け、子どもが学校という社会で様々な経験をして自立していくために、親の私もどのように子どもと接していくかは日々勉強が必要です。

 

迷った時、困った時に適切な助言をして頂き、子どもにも時々訪問していただき登校後のフォローをして頂きます。

そうして、子どもも学校生活に慣れ家庭内の会話等も問題がなくなってくる頃まで支援をして頂きます。

 

支援機関による登校刺激は、先生方と家庭がともに協力し合いそれぞれのするべきことを行った上で、子どもの性格や状況を良く見て行われています。

 

支援を受け登校刺激を経験し復学した娘は、今はクラスメートや部活の仲間と学校で楽しく過ごしています。

 

 


メルシーさんのコメント

 

「登校刺激」とは、簡単に言えば、子どもが「学校に行かなくてはならないと感じるような刺激を与えること」だと思います。

 

昔は積極的に学校に来るよう説得したり、説教したり、毎日のように呼びに行ったりしていたと思いますが、現在は一般的に、「登校刺激はせずに見守りましょう」或いは、「慎重に」というのが主流のように感じています。

 

それは、「行かなくてはならない」という強迫的な思いから、親子共に解放されれば、登校しないこと以外の症状は軽減される為、その分の心的エネルギーが、問題解決に活用出来ると考えられているからなのかもしれません。

 

下手に登校刺激を与えることで、身体症状が余計にひどくなったり、防衛本能が働いて、暴力的になったり、ますます殻に閉じこもったりしてしまうこともある為、「登校を強制せず、学校の話題も出さない生活環境を作る」ということが、今は一般的になってきているのではないでしょうか。

 

独学での再登校を目指す

独学での復学を目指す場合、この「登校刺激を与えない」という点では、一般的な考え方と同じなのだろうと思います。

でも、だからと言って、子どもに登校刺激がないというわけではないと思います。

 

その子どもの受け取り方にもよりますが、例えば担任が家庭訪問をしたり、友達がプリントを届けてくれたりすることも、登校刺激になりますね。

 

また、きょうだいがいる子は、きょうだいが登校して行ったり、ただいま~!とランドセル姿で帰ってくるのも、その子によっては登校刺激になるかもしれないです。

テレビでも学校のこと(或いは連想させること)は必ずと言っていい程、出てきますしね。

 

なので、親は自分が変わることを頑張っているだけでも、子どもは外部からの登校刺激は受けているわけで、親が変わり、子どもに変化が出てきたところで、そういった刺激が役立ち、自ら「学校に行きたい」という言葉がハッキリと出るまで、「待ちましょう」の姿勢でいるという点で、同じなのだと思います。

 

我が家の場合、親や親が依頼した大人からの登校刺激はしませんでした。

 

親が子育てを学び直し、子どもへの対応を変えます。すると、子どもに自立心・協調性、自信や挑戦欲等が出てきました。

その時に、そういった外部からの刺激が役立ち、子どもが、もしかして今の自分なら学校に行けるかもしれない、行けるのなら行ってみたい、と思ったところで、大人が行きやすい環境を準備し、気持ちを支えてあげて、あとは温かく見守る。

これが独学である我が家の流れでした。

 

支援機関の登校刺激は、あくまで専門家としての分析や経験をもとに行っているからできることだと思うので、

支援を受けていない家庭で、それを真似るようなことをしてもうまくいかないし、逆効果になる場合も多いと思います。

 

支援を受けなかったわが家のようなケースでは、あくまで、「親が変わる」こと。

それは、親としての心構えを学び、話し方、接し方等の対応を学び、感謝、気配り、心配り、思いやりの心で生きることなのだと思っています。

 

 


ティカさんのコメント

 

私は復学支援を受けていたので、「登校刺激」は支援機関の代表の先生にしていただきました。

 

息子は学校に行けなくなった時、しばらくは毎日、翌日の準備をして寝ていました。しかし、朝になると行けなくなります。それを繰り返すうちに、準備をしなくなり、学校に行きたいと言わなくなり、そのうち「もう学校には行かない」と宣言するようになっていました。

 

もう動く気配がなくなった息子をみて、復学支援機関に支援をお願いしました。そして約3ヵ月間「家族療法」を行い、息子の問題があった性格(我儘、柔軟性のなさ・・・)を、学校という社会の中で順応できるレベルまで改善していきました。

 

登校刺激の日

そして「登校刺激」の日を迎えます。

私はその日まで、息子の気持ちを掴めずにいました。今、学校をどう思っているのか?行きたいと思っているのか?それとも行きたくないのか?まったくわからなかったのです。

それだけに「登校刺激」で学校へ行く意志を見せなかったら・・・という不安で一杯だったのを覚えています。

 

「本当は学校に行きたかった。でも、休んでいるうちに行けなくなってしまった。自分でどうしたらいいのかわからなくなってしまった」

息子はそう言ったそうです。

「学校へは行かない!」なんて嘘でした。

 

学校に行く希望を失い、諦め、「行きたい」という気持ちを自分の中に封印し、そう強がらなければ自分を支えられなかったのかもしれません。息子がこんな悲しい嘘をつかなければならなかったなんて・・・胸が締め付けられるようでした。

 

もし、息子の言葉を素直に信じて、学校を諦めてしまっていたとしたら・・・。

それを思うと今でもたまらない気持になります。そうなる前に息子の本当の気持ちに気づいてあげることができ、救ってあげることができてよかったと心から思っています。

 

登校刺激から変わった息子

息子はその日から変わりました。

 

●昼夜逆転が直り、規則正しい生活を心がけるようになりました。

●オンラインゲームをやめました。

●不登校中まったく勉強をしていませんでしたが、その日から登校日まで、勉強をしました。

●伸びきった髪の毛を切ってほしいと言ってきました。

 

全部、息子の意思でそうしたのです。こうしろと命令されたことなどは一つもありません。ただ、登校するという光を見せていただいただけで、これほど変われたのです。

 

「登校刺激」では、息子の中の本当は学校に行きたいという気持ちを引き出していただけただけでなく、息子の至らない点、改善すべき点なども指摘し、厳しく律してもいただきました。息子にとっては、先生は怖い存在のようです。

 

しかし、復学して数カ月した頃、息子が「あの人に会ってみたい」と言いだしました。登校刺激をしてくれた支援の先生のことです。自分に真剣に向かい、体当たりで諭してくれたこと。深い愛情があっての厳しい言葉であったことを息子はちゃんと感じとっていたようです。

 

学校へ行く意志を見せてからは、日増しに表情がよくなっていくのがわかりました。毎日、登校までのスケジュール表を眺め、訪問の先生と学校へ行く準備をするのも本当に楽しそうでした。

「こんなにも息子は学校へ行きたかったんだ」

「学校へ行きたい」という言葉は、決して言わされた言葉ではなく、息子の心の言葉だったのだと、私は確信しました。

 

再登校の日

復学の日、学校から帰ってきて、ランドセルを玄関に放り投げ、「外に出れて嬉しい!」と笑顔一杯で友達の家へ飛んで行った息子の姿を、今も忘れることはできません。

 

学校の中の息子・・・それは息子の本来の姿でした。

 

息子は今も、元気で学校へ行っています。

私は私で、息子の継続登校を見守りながら、自分自身の生活も楽しんでいます。

 

「登校刺激」は子どもに「学校へ行けるんだよ」という希望の光を見せてあげることなのだと思います。あの「登校刺激」により、息子は、自分の向かうべき方向を見いだし、自分の足で歩き始めました。そして今もその道を歩いています。

 

学校を諦めなくてよかった。

息子の本当の気持ちを引き出してあげることができてよかった。

 

なによりも息子の笑顔がそれを物語っています。