【家族構成】(復学時の学年)
☆夫
☆私
★娘(小5)
☆息子(小3)
☆義母(要介護4)
小学3年6月
下校途中に友達とのトラブルがあり、座り込んで動かなくなる。
家に入るのを拒み夜は玄関の土間に布団を引いて寝る。
次の日から教室に入れなくなり、廊下の窓越しに授業を受ける。それも続かなくなり、五月雨登校。
家では玄関で食事をし寝ていた。風呂、着替え、歯磨きをしない。まともな食事をしなくなる。
小学3年9月
2学期からは運動会の練習のために先生の車で毎日登校。
学校では大半を職員室で過ごし制服を着ないで私服、サンダル履きでいるなど、かなりの特別扱い。
担任の先生はもと適応教室におられたので、娘の為に特別にできることは何でもしようとされたが、他の生徒や親からの苦情もあり、私もしんどくなっていく。
小学3年10月
行事やその練習の時だけ車での五月雨登校。行っても途中で勝手に帰ったりするので私が待機していた。
家では暴言暴力、弟への激しいいじめ。
私には「あっちいって」しか言わない。
私はスクールカウンセリングに通いだす。カウンセリングでは聞いてもらって帰る感じ。
小学4年4月
始業式は制服を着て登校班で登校するが、2日間しか続かず、あとは行ける時間に私の車で行く。
3年の時と違い友達の顔色をうかがって必死に合わせようとする。
時々かんしゃく起こして友達をびっくりさせ、自分も落ち込んで後で謝る。
担任の先生は持ち上がり。音楽が好きな娘のためにクラス内で音楽会をしようと提案して下さるが継続登校にはつながらず、同級生から批判を受けるようになる。
家では宿題などの根気のいることはできない。
音楽の習い事は家での練習を全然しないので、先生から、グループを抜けて個人レッスンに行くようにと言われ、それを機にやめる。
小学4年5月~6月
調子が落ちていき、学校が遠のいていく。
完全不登校になる。神経症的になっていく。
児童精神科を受診、抗鬱剤をすすめられるが断る。小児科で発達障害の診断をしてもらうが、異常なし。そこで医者から「母親が苦労して変わるべき」というようなアドバイスを受けたがピンと来なかった。
子どもの友達の親に誘われて、発達障害の親が集まる会に出席。自己紹介のときに自分の過去の介護の話ばかりしてしまった。
「お母さん、自分のしんどさばかりで子どもが見れていません。変わって下さい。」と言われたをきっかけに、自分が変わらなくてはいけないんだと気づく。
娘ピアノやめる。
小学4年7月
HPで復学支援機関を知り、本を購入。事例が我が家そっくり。100%復学できるという言葉に希望を見出す。
「親が変われば子は変わる」は正直よくわからなかったが、そこで勉強することにする。
娘はプールの時のみ登校。
小学4年9月
支援開始。子育ての中でやってはいけないこと、問題のあるときの対処法など、娘の状態にあったやり方を細かく指導してもらう。
「会話ノート」を添削してもらい、具体的に娘への対応の仕方をどう変えるかを学んでいく。私自身の性格や生活の仕方までとことん変わるように指導される。
娘スイミング休会する。
訪問のお姉さんが定期的に来てくださるようになる。
校長先生が、特別支援の対象として教育委員会に娘を登録してもいいか、親としての意見を求められ、いったんお願いする。
来年度から娘専任の先生がつくことになる。
小学4年12月
娘は徐々に神経症がゆるくなっていく。
校長先生に特別支援の登録を取りやめにしていただくようお願いに行く。
「特別支援されなくてもいいようになってから復学させますので」とはっきりお伝えする。
小学4年3月
親が5年生からの復学の意志を確かめると、4月から行くと言う。
不安なことは勉強の遅れと言うので、知り合いの大学生に家庭教師に来てもらい問題集を一冊終える。
学校にも連絡し、5年からの復学に向けて動き出す。
小学5年4月~
始業式から登校班で登校。一日も休まずに5年生を終える。
私との関係も改善され、やっと母と娘になった。
6年生の最後や、中一の冬に五月雨登校になり、危うい時もあったが、なんとか不登校にはならずに、継続登校中。